社会的役割の変化と組織固有の価値観とに基づく最適ムーブの変化について

タイトルでメモしたいことすべてをメモできてしまったのだが、もう少し詳しく書いていこう。

そもそもの思考の起点は、現職における大規模な組織変更である。日本の企業で組織変更があったくらいで深く考える様なことは起きないのではないか、と考えていたが、そんなことはない。上が変わるとその下はより根本的に変わっていく。それに加えて、キャリアにおけるマネジメント役からの降板も存在する会社ではその後のやりくりを考える必要もあるだろう。

とても運が良いことに、現代は人工知能がブームとなっている。そして様々な方が異論を述べると思うが、人工知能ブームの最後まで今と同じ以上の必要性が末永く残る現存ジャンルはいくつかしか無い。その残るジャンルにデータの創作と構築、検証は残る。残ってしまう。そのため、人工知能ブーム下においては、あらゆる人々に対して社会的な立場を高める暗黙的な圧がかかるはずなのである。

人間はインターネットによって手元に図書館以上の書物をいつでも参照できる状況になっても、未知の問題に対する対処に迷うし、選択を間違う。世界中の書籍を集めたとしても同様の構造は残るのだろう。

人間はどれほど優秀な教師やアシスタントが居ても、行動を間違うし、失敗をする。それほどに人間はバグっているし、不確実な存在なのである。

考え方を変えて、今存在しているC向けサービスがすべて自動化されたインフラとなったときに、何が残るのか。AIが自動化をしても、自分が移動するためには電車に乗らないといけない。

電気が喪失するリスクや、自分と他者を接続するサービスが喪失するリスクには備える必要がある。そのような考え方に基づき考えると、AIエージェントに頼りフルリモートで仕事をすることは現状程度の電力供給の頑健さからすると危険でしかない。

効率を上げることが、AI以前の働き方を無くす方向に向かってはいけないのだ。子供を養育するのは親だし、生徒を教育するのは教師、学生を教育するのは教授、部下を指導するのは上司、組織を指導するのはお役人。そういう属人的な構造は、時間の無駄である一方で、致命的なインフラリスクを回避するためのセーフネットだったと言える。人間はバグってる。そして孤独に弱い。正確なAIとの組み合わせはバグってなくて孤独に強い人間以外とは、実は相性が悪いのではないか。

人間のやることが減ることは、インターネット以前、テレビ以前、ラジオ以前と過去に遡る様にしてより暇な時代に戻った状態になるとも言える。都会から田舎に行くと、やることが無いので早く寝る。手っ取り早いとこだとスキーリゾートとかに行くと22時以降はバーしか空いてない。寝るしかないのだ。

AIが助けてくれる場合も同じで、AIが暇にしてくれたら寝たり、同じように暇な人と話したりすればよい。店に行ったら店員も暇にしてるだろう。店員と話したら良い。

そういう都会的な働き方に対して、一次産業はどうなっているのか。それは対して自動化されない、ということになるだろう。冷凍マグロ倉庫の荷降ろしはロボットがやる様になり、深夜の見回りはドローンがやり、皿洗いや清掃もロボットがやる範囲が大きくなる。それに従って、あらゆるロボットの行動範囲は規格化されていき、つまらないものにならざるを得ない。人間はバグってるので無変化に弱い。無変化に強い人間を現世では自閉症扱いしている。

自由で暇な人間は何をするべきなのだろうか。それは歴史を振り返れば簡単なことで、記録したら良いのである。日記を書いたり、議事録をつけたり、随筆を書いたり、恨みを記録したり、とにかく記録を残すのだ。ただし、現世ではその記録を電子的に残しておくほうが良いだろう。特に大手インターネットサービス会社のサービスで残すのが好ましい。インフラが壊滅してもインターネットのどこかに自分のデータがのこってる可能性があるからだ。後世の人類の視点からすると、自分が作ったデータを死ぬまで抱えている必要はない。数千年語に誰かが発掘した際に、復元できたら良いのである。

そのようにして作られた電子的なデータは現世でもいくらかの意味があるだろう。具体的にはAI に局所的で独立な知識をインプットできる。そのような局所的な知識はAIインフラの規格化と網羅が進捗しないうちは強く求められる。局所的な知識のうち最も重宝されるのは、新聞や出版、旅行会社、自治体職員や公務員など足を使ってその場の情報を集めることができる人々を抱える組織が発信する情報である。

なぜならAIも人間も個々の情報の信頼性を検証しきることができないため、情報の発信源を信頼するしかないからである。例えば、イルカの新種が発見されたとする。そんなときにそれが本当なのか検証できる人間が真横にいる人間なんてそんなに居ない。結局、どこから流れてきた情報なのかが大切で、個別の事例に目をつぶって主語がでかい話をすると、どこから来た情報なのかだけが大切、と言い切っても良い気がしている。

これこそがAIが来たからと言って、自分のキャリア開発を緩めて良い、とはならない最低限の根拠だと考える。自分が発信した情報が誰かに届くことは、人間の生の実感に直結している。AIがすべてを握る時代では、信頼されない位置から発信した情報は発見すらされないので、誰にも届くことはない。AIと人間の共存は社会的信用力の重要性が究極に高まる世界である。そのような世界では信頼される立場での情報発信は重要な仕事になるのだ。

信頼される立場とは何か。誤解をしてコミュニケーションを混乱させる可能性が低いことであり、過剰な心配をして無駄なプレッシャーによる信頼や時間を無駄にする説明を求めないことであり、全員が困ったときに解決する方法を提案できることであり、要するに周囲が時間を得するやり方をできる人間の信頼性は頑健である。他方で、誰か個人のために考えても居ないお世辞を言ったり、誰か個人の利益のための利益しかない行動を選択したり、暗黙的に小さくて分かりやすい方向に舵を切ってしまったりなど、短期的に周囲から褒められる行動をする人も、それなりにいる。これも正解というか、大半の選択はこの様な選択の繰り返しで構成されているのだと思う。だが、本当にこれが良いのだろうか。

大人になることと、誰かのためになることとは、全然別なんだよな。どちらかだったら、身を滅ぼさない範囲で後者を取っていきたい。

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